家屋売却に伴い空家に残されていた絵画のお買取りで当店提携の不動産業者様よりのご紹介でご依頼頂きました。他のお品物(食器や家具、置物等)の大半はお引越しに併せ処分されてしまったようで、絵画のみ残されておりました。長年納戸にしまわれていた品もあり染みの多い品もありましたが全てお買取りでお値段お付けさせて頂きました。処分の予定だった絵画が処分されずに再生されるとの事でご依頼主様も大変喜ばれておりました。「孤高の天才画家」と呼び声高い「平野遼」作品ありと貴重なお品物をお譲り頂き誠に有難う御座いました。
【平野 遼/Ryo Hirano】
(1927-1992)
1927年大分佐賀関町生まれ(本名平野 明)。
同年、福岡県八幡市(現在の北九州八幡東区)に転居。
1940年徴兵令により若松造船所で働く。
1945年終戦・除隊後、住居を転々としつつ米軍のポスターを描き、似顔絵描きをする。
1949年上京。宮脇繁と出会う。第一三回新制作展にて自己で編み出した技法による蝋画『やまびこ』が初入選。
1950年北九州に戻る。小倉PXのウインドウ装飾画として就職。
1951年PXで溜めたお金を持って再び上京。川崎覚太郎と出会う。第一五回自由美術家協会展に油彩画『詩人』を出品。
1954年水野清子と結婚。
1959年第22回自由美術家協会会員に推挙される。
1962年第五回安井賞候補新人展に出品。
1964年自由美術家協会を退会。森芳雄氏、大野五郎氏らと主体美術協会を結成し、創立会員となる。
1974年初のヨーロッパ旅行を経験する。
1975年主体美術協会を退会する。
1987年北九州市立美術館にて「平野遼の世界展」を開催。西日本文化賞を受賞。
1992年12月24日心不全のために他界。享年65歳
戦後の混乱期に独学で画家として歩み始めた平野は、困窮と孤独のなかで、
独特の筆致による内面世界の表現を確立しました。
平野の関心は常に「人間」にありました。
平野は時代に流されることなく、真摯に人間や社会、そして自分自身と向き合い、
その本質を捉えるべく凝視し続けました。作品には、時に苦悩し不安にふるえ、
時に矛盾を抱え生きる人間の普遍的な心の在りようが、重厚な色彩と線とによって表現されています。
≪コレクション展Ⅰ特集 没後30年 平野遼より≫
当作品は中古市場ではあまり出回っていない希少作品であります。保管期間が長く、全体に染みがありましたため通常より査定は下がってしまいますが
一番のお買取り額となりました。
その他詳細不明の画家物やポスター等、お値段がお付けづらいお品物が大半でしたが額縁として等全てお買取り可能で御座います。
有名無名関わらず殆どの絵画はお買取りお引取り可能で御座います。
処分される前に是非とも「きのとり」にご一報くださいませ。